木の上に別荘
お客様みりょく共創責任者 兼 別荘管理人
山嵜 哲也(やまざき てつや)
と申します。
TV、新聞などに掲載をお手伝いをする
PR専門家をやっています。
一生懸命頑張ります!
よろしくお願いします!
【自己紹介】
1986年生まれ(39歳)
宮城県仙台市生まれ、長野県長野市育ち
現在は神奈川県鎌倉市在中
毎日15分かけてシェアオフィスに自転車で
通勤しています。
【家族構成】
妻(北海道出身)長女(8歳)長男(5歳)の4人家族
長女のお絵描きが素敵。
ダンス好き、刀剣乱舞の推しは〇〇!
長男はイタズラ好き、得意なことはいっぱい話すこと、新幹線「ドクターイエロー」好き
【出身校】
高校「長野県立長野工業高校(建築科)」
中学時代は軟式テニス部
高校は硬式テニスにどハマり。
引退後は自主練に励み現役の頃より
強くなっていた。
社会人になって腰痛でテニスを断念。今に至ります。
【性格】
優しい
高校3年生から20代前半までは努力根性の人でしたが、根が優しいのと人が好きなので根性論に違和感を感じ、優しさってなんだぁーと悩んだ時期があります。ベランダで花を育てたり、ハムスターの飼育をしたり、学校では飼育係のおばちゃんとお話ししたり、ウサギに餌をあげるのが好きな小学生でした。母親には「この子ナヨナヨしていて大丈夫かしら」と心配されていた経験があります。
【趣味】
仕事に役立つ勉強、全国各地へドライブ旅行

2024年にテレビや雑誌などのメディアに載せるお手伝いをするPR専門家として活動開始。
2024年以前、SNS投稿から認知され、個人事業主のPRを担当。月平均1〜2メディア掲載、営業0でも企業から年間契約をいただけるようになる。
「SNS発信が苦手で自分に自信がなかったが、テレビや雑誌で紹介されて自信が持てるようになった」「集客に悩んでいたが、集客が楽になり仕事の効率が上がり家族との時間が増えた」「人材採用に悩んでいたが、自分にとって心強い方と一緒に働けるようになった」という声もいただき、依頼も増加。
「後世に大切なものを残していく」が使命。
鎌倉を拠点としながら、活動の場は日本全国へ広げている。
略 歴

2005年
高校卒業後 海上自衛隊へ入隊
2016年
結婚
2021年
社会貢献活動として個人事業主の広報を担当
多くのメディア露出に貢献
2022年
広報・人材募集に関わる部署に転勤
学生約700人のお話を聞く中で、社会への不信感を抱いていることを実感
2024年
独立
「木の上に別荘」 開業
木の上に別荘
開業までのストーリー
幼少期
父逃走、小・中学校でいじめ

宮城県仙台市で、法律上、婚姻関係にない男女から1人息子として誕生。
父親は会社倒産で多額の借金をし返済できなくなり、母親からお金を借り逃走。母親は幼少期の私を何不自由なく育てるため昼夜とわず仕事。私が物心ついてきた頃に新たな父親を迎えた。私は、男の子なのにナヨナヨしていると母親に心配されつつも物静かで何の苦労もしない良い子として幼少期を過ごしました。

学校では大人しくて物静か、そして優しい子でした。悪戯されても黙ってやり返すこともなく、次第にエスカレートしていじめに発展、いじめは中学校まで続き、ストレスを母親に当たり散らす毎日。ただ、文化祭や学校行事でのボランティア活動は大好きで、Windows95でチラシを作り同じマンションに配布や訪問営業を中学生で自主的に実施。同学年にはびっくりされたが、地域の方々の「ちょっと待ってね役に立つものあるか探してくる」などの温かな言葉、そして、『誰かのために行動し自然と応援してもらったこと』が素直に嬉しかった。
学生時代〜20代前半
海上自衛隊へ入隊
努力根性で活躍、部下指導に悩む

中学校までいじめが続いたが、高校では運動部で毎朝自主練、その姿に周りも認めてくれるようになり、努力根性が自分にとっての生きる道と思うようになる。高卒後は海上自衛隊へ入隊。努力根性で個人成績はピカイチだった。同僚や部下で仕事に悩んでいる姿を見ても「努力根性が足りねぇなぁ」と思うようになる。しかし、部下が増え仕事を教えていく中で部下の顔が笑っていないことに違和感を覚え始め、だんだん自分も苦しくなっていった。そこで、毎日の仕事で助かったことを部下に伝えるように意識してみた、すると部下の表情と行動が好転、その変化にびっくり。その後、傾聴やコーチングを学び部下の話しを聴くことの大切さを知る。以降、私から努力根性論は薄れてきていた。
その日起きたHappyなこと3つをメモに書き職場でみんなが見える場所に掲示してみた。その結果、私自身が普段最高の仲間と働いていることに気が付き、一緒に働くことが愉しくなり部下も生き生きとしていった。

その後、ボランティア活動として西日本豪雨災害では現場リーダーを務め、現地では被害復旧よりも最優先として、被災された方と話すことを重点に各地で復興作業を行い、山の中で1人で暮らすおばあちゃんからは「世の中こんな神様みたいな方々がいるんだねぇ、生きててよかったわ」と話し私とおばあちゃんの写真は仏壇に飾られるように。『話を聴き、行動し伝えること』は生きる力となるのだと実感した。
20代後半〜30代前半
転勤
落ちこぼれ・居場所が無くなる

300人規模で新事業に関わる部署に転勤。各地から優秀なリーダーが10数名初期メンバーとして配属されるのが基本だが、私は年齢が若めだが個人成績が良かったため猛者たちと初期メンバーとして働くこととなった。しかし、同僚や部下との関係性は今まで気を付けていたが、リーダークラスや上司とはあまり深く関わってこなかったため配属されると、コミニケーションをうまく取れず、周りに頼ることもできず仕事が終わらない毎日を過ごし、「期待されて配属になったのに仕事ができない・・・」「周りのレベルに圧倒され相談ができない・・・」と自分の不甲斐なさと居場所の無さに落ち込む日々を過ごすことになりました。周りの助け舟にも気が付けず・・・耳を塞ぎ込み・・・自己否定の日々

また、培ってきた仕事観から、「今までの努力根性は何だったんだ・・・」、「今の専門職に情熱が湧かない・・・」、「自分ではなく、もっと優秀な人間が配属されたら良かったのに・・・」と、働くことの意味がわからなくなり、もがき苦しんだが、会社では辛いとは言わずに我慢我慢の日々を過ごし、遂に、精神的につらくなり、笑顔が消え、生気を失い、人と会うことが嫌になる。
それでも我慢してきたのは、今は少人数だが、当時の上司から今後仕事仲間になる人と直接会って話しをする機会をいただけて、その1人1人がみなさん素敵な方々だったので、後に一緒に働けることを愉しみにしていたからだ。
30代プライベート
妻の一言
育児、大喧嘩、転勤 騒がしい毎日

家庭では2人目の子どもが産まれたばかり、1人目の娘がイヤイヤ期真っ只中、毎日休みなく必死に育児をする妻は、疲弊していた。私は生気を失い自分のことで精一杯でそんな私と妻は大喧嘩。私は仕事帰りも遅く、お互いに話し合う時間もほとんど皆無にも関わらず、辛そうな私を見て妻が一言「このYouTube見てみたら」と言った。

動画はクリス・モンセン。そして、著書に「そろそろ、大好きなことで生きていこうよ!」を購読。自分の人生から大好きなことを考えるきっかけになり『自分ができることで誰かを応援し笑顔が見たい』と思うようになり、独立を考え始める。
私は、大人しい性格にもかかわらず誰かが頑張っていることを世の中に知ってもらおうとするときの行動力と応援力が小中学生の頃から凄かったので、広報職がしたいと思い、社会貢献活動としてPR代行をスタート。将来の独立を決意。

仕事仲間にも背中を押していただき、何よりも妻の私への絶大な信頼が1歩踏み出す勇気となり、まずは広報部署への転勤を考える。
しかし、人事担当から広報部署に空きが無く行ける可能性はほとんどないよと言われ挫けそうになるも、熱意を伝え続け、家族の支えと仕事仲間の応援と人事担当にアピールし続けてくれた上司のおかげで、広報部署への転勤が決定しました。最高の仕事仲間に感謝してもしきれない。
30代新たな挑戦
社会貢献活動
PR未経験ながら18メディアで紹介

転勤後は個人的に、PRがメソッド化されたスクール(PR塾)で学び、クライアントが18メディアに紹介され「誰かに応援されることがこんなにも励みになるのか」という感想をいただき、自分自身が一人の人として自然体で接し変化が生まれたことに感動。人と社会を結びつけ必要な人に届けるPRは、「本気で学び続けて試行錯誤しながら商売をしている人」「自分の価値を高め続けて社会に還元している人」「人生を懸けて物事に取り組む人」などの職人気質な人にとって必要だと実感しました。

一方、伝えるのも人、届けるのも人なので伝え方によっては全く違う価値で伝わり、本来もつ魅力が伝わらないという相性の不一致は不幸を招くと考え、『身近な人からの応援に繋げるためのPRがしたい』と思ったのです。そこで、「多くのメディアに掲載され、あなただから買いたいという価値を提供」するために、今いるお客さんとのコミニティーを大切にし、営業0でもできるPR活動に注力することで、営業0でも企業から年間契約がいただけるようになり、HPに初めましての方から応援メッセージが届くようになりました。
そして、PR活動でも地域の子どもたちの未来を応援するアナウンサーとのご縁から東海3県に放送されるメディアで紹介されたり、いじめや不登校、こどもの貧困などに課題を持っている記者さんとのご縁から東海3県に配布される新聞に掲載されたり、起業家の新たな取り組みから地元活性化に寄与したいと記事を書かれている記者とのご縁から新聞掲載されました。伝える人と届ける人との相乗効果によりクライアント、メディア関係者、地域の方々に繋がりが生まれて、地域を活性化し身近な人(今いるお客さん)から応援されるPRに成長しました。
30代後半
学生の言葉
仕事はつまらないものだ・・・

広報部署に転勤後、私は人材採用に関わる仕事をしていたので高校生、大学生、転職者など約700人の方とお話を聞く機会がありました。
学生からは、
・資格取得に励み、どのように履歴書を武装して強くするかを考えたり
・親が納得する仕事を無理やり探したり
・社会に出たら学生みたいな行動ができなくなる
仕事は辛いもので、生活するために仕方なく働くものだと思っている方が多いことが悲しいことで残念だと思いました。
学生1人1人とお話ししていると、とても勉強熱心で素晴らしい考え方を持っている反面、世の中への不信感に敏感だな感じました。こうした現状に、『あなたの身近にこんなにも素晴らしいお店、企業、人がいることを伝えたい』そして、自ら社会に飛び込んで、その勉強熱心で素晴らしい考え方から仕事を愉しんでもらいたい、さらに次世代と繋げるPRがしたいと思うようになりました。
その後、19年勤めた海上自衛隊を退職し『後世に大切なものを残していくPRをしたい』という目標を達成すべく独立
人生の振り返り
ロゴへの想い
転校する友達への贈り物

私が大切にしたい想いの『原点』は、小学校4年生でのある出来事に遡ります。当時10歳の頃、同じクラスで転校していくミオちゃん(女の子)がいました。私のクラスでは転校するミオちゃんに1人1人プレゼントを渡すこととなり、私は、何を贈ったらミオちゃんは喜んでくれるんだろうとすごい悩みました。
プレゼントを渡す当日、お手紙を渡す人、綺麗なお花を渡す人、可愛いアクセサリーを渡す人がいました。どれもがお店で売っているような綺麗で素敵なものでした。そんな中、私がプレゼントしたのは紙粘土を鉛筆立ての形にして色とりどりの折り紙を貼ったなんとも不格好な手作りのプレゼントでした。渡すのが恥ずかしかったのを今でも覚えていますが、一生懸命作ったしとにかく渡しました。ミオちゃんは転校後会っていないので感想は分かりません。プレゼントの見た目ではなく、私はこの時渡した鉛筆立てが出来上がるまでの過程がとても素敵だなと思ったのです。
誰かのために一生懸命考えて喜ぶ姿が見たい、そんな当時の自分を考えた時、その姿が好きだなと思いました。大切な人を想うとき、勇気を出して渡すとき、届けた相手がちょっと笑ってくれていたら素敵なことだなと思います。
仕事で大きな成果を得た。それで、身近な方に本当に喜んでもらえた。しかも、正当な対価をいただけた。そこが人の喜びが詰まっている愉しい仕事であり、PRで伝えていくのが私の役目です。何か辛いことがあった時にちょっと笑ってしまう小さな出来事、あーなんか上手くいかないなと思った時にちょっと笑ってしまう小さな遊び心なども愉しさのひとつです。辛いことはこれから何度もある、でも、ちょっと笑ってしまう出来事は、人を救うと思っています。この全ての想いが詰まった私にとっての『原点』をロゴにして忘れないようにしました。

今後の展望
日本人の意識改革へ

身近で働いている人が愉しそうに仕事をしていたら、これから社会に出ていく人たちは働くことが楽しみになります。身近な人とは、地元の商店街の人や親戚の農家など様々ですが、働く親の姿もそのひとつだと思います。
日本は「自分の将来イメージは暗い」が8カ国で圧倒的1位(博報堂調べ 2024年6月7日、15〜59歳の男女11,000人を対象とするインターネット調査)

私が関わる方々から派生し、大人が愉しさと挑戦する姿を子どもに見せ後世に伝えていき、今後も、「本気で学び続けて試行錯誤しながら商売をしている人」「自分の価値を高め続けて社会に還元している人」「人生を懸けて物事に取り組む人」をサポートし、先行きが暗い日本を明るくする担い手増加に貢献することで、日本経済が発展し次世代と共に愉しむ未来を目指していきます。

私は、海上自衛官でした。人の命は災害によって呆気なく終わります。そんな中、生き残った方々は懸命に生きようとしています。私が関わることで誰かの命が救えるならば、これからも全力で助けに行きます。皆さん共に人生を生き抜きましょう。

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